2016年11月19日土曜日

天下のプレイボーイの華麗なる没落~《ドン・ジョヴァンニ》の魅力

加藤浩子(音楽評論家)

 《ドン・ジョヴァンニ》のタイトルロールは、オペラ史上もっとも魅力的な主人公のひとりだ。従僕のレポレッロが歌う有名なアリア〈カタログの歌〉によれば、なんと2000人以上の女性をものにしたというこのスペインの貴族は、オペラのなかで没落する。人を殺し、口説きに失敗し、彼に恨みを抱く女性たち(とそのパートナー)に追い回されて。

 オペラの最後でドン・ジョヴァンニは、自分が殺した騎士長の亡霊に地獄へ引きずり込まれる。一件落着、めでたしめでたしのはずなのだが、なぜか観客も、そして彼を滅亡させようと追い回していた登場人物たちも、心に穴があいてしまったような寂しさから逃れられない。悪漢だけれど人間的で、亡霊の脅しにも屈しないドン・ジョヴァンニは、あまりにも魅力的なのだ。そんな人物を主人公に据えたオペラに、モーツァルトは彼の数あるオペラのなかでもっともドラマティックな音楽をつけた。愛と死、光と闇が渦巻く《ドン・ジョヴァンニ》は、オペラの黄金時代である19世紀、ロマン派の時代の幕開けでもある。
 
 今回のMETの《ドン・ジョヴァンニ》の目玉は、適材適所の豪華キャストである。バリトン(バスが歌うことも)の究極の役柄のひとつであるドン・ジョヴァンニを歌うのは、世界屈指のドン・ジョヴァンニ歌い、S・キーンリサイド。手練れの悪漢で、自由を謳歌し、憎々しいけれども時々弱気な表情も見せる、人間的な大人の男。そんなドン・ジョヴァンニを演唱させたら、このひとの右に出る歌手はいないと、今回のライブビューイングで再認識した。


 負けず劣らず出色なのは、もう一方の主役である3人の女性たちだ。父を殺されたり、棄てられたり、襲われそうになったりという理由で彼を追い回す3人の女性は、それぞれ個性的なキャラクターで、モーツァルトがいかに女を描くことに巧みだったかがよくわかるのだが、今回はまさに適材適所。ドンナ・アンナ役のH・ゲルツマーヴァは、冒頭でジョヴァンニに襲われるのが理解できる官能と悲劇性を兼ね備え、彼に棄てられたドンナ・エルヴィーラ役のM・ビストラムは、貴族らしい品の良さと一途さを透明な声で歌い上げる。加えて村娘ツェルリーナ役のS・マルフィときたら、声も演技も色っぽさそのもの。ツェルリーナは3人の中で一番男女の機微に通じている女性だと思うが、まさにその通り。傷を負った婚約者を癒す第2幕のアリア〈薬屋の歌〉には、誰もが蕩けるだろう。
 
 MET首席指揮者F・ルイージの指揮は、軽やかでエレガント。大仰な悲劇でなく、あくまで18世紀の貴族社会の空気を漂わせたモーツァルトだ。だから肩肘張らずに楽しめる。M・グランデージによる、METの大舞台をくまなく生かした古めかしい宮殿のようなセットのなかを人物が自在に動き回る演出にぴったりの、小気味のいい音楽作りだった。
 
 粒揃いのキャストとセンス抜群の指揮が引き出す、天下の悪漢の華麗なる没落。METならではの会心の舞台である。




写真©Marty Sohl/Metropolitan Opera