2014年3月20日木曜日

100年ぶりの心揺さぶる超大作《イーゴリ公》 現地レポート

池原麻里子(ジャーナリスト)

ボロディンのオペラ《イーゴリ公》はあまり観るチャンスがない作品だが、きっと、誰でも聴いたことがあるのが名曲〈だったん人の踊り〉。ソチ冬季オリンピック開会式、ミュージカル《キスメット》やバレエ、CMなどで耳にしたことがあるはずだ。

《イーゴリ公》はロシアのボリショイやマリインスキー歌劇場なら《金鶏》《ルスランとリュドミラ》などと並ぶ定番オペラだが、METで上演されるのは、何とほぼ100年ぶり。しかも、ロシアの鬼才ディミトリ・チェルニアコフの演出で。

ヨーロッパを中心に活躍しているチェルニアコフは、今回METデビューを果たしたが、シーズン発表時からとても注目されていた。というのもまだ43歳だが、数多くのオペラや演劇を手がけ、その斬新な手腕に定評があるベテランなのだ。今回はセットだけだが、通常は衣装と両方、自らデザインするトータルな演出が彼の手法だ。

私の期待は裏切られなかった。本来は12世紀のロシアの英雄を描いた愛国主義的な作品を、チェルニアコフは思慮深くイーゴリ公の心理描写に重点を置きつつ、それを大胆な演出で表現した。

演出で重要な役割を果たしているのが、舞台セットと映像だ。プロローグの冒頭にイーゴリ公の苦悩に満ちた顔がアップで映され、戦争が彼にとって、自己逃避の手段であることを窺わせる。イーゴリ公が周囲の反対を押し切って、ポロヴェツ(だったん)人打倒の遠征に行く舞台は、彼の権力を顕示する宮殿で、大理石で作られているような白さが輝かしい空間だ。次に第1幕が始まると、それまでのモノトーンから一転して、舞台いっぱいの非現実的な真っ赤なケシの花畑が衝撃的だ。そこは負傷して捕虜となったイーゴリ公が空想するユートピアで、大勢の男女ダンサーたちが有名な〈だったん人の踊り〉を踊るのだが、花畑から急に姿が見え隠れして、とてもシュールだ。ここで、イーゴリ公は至福の境地と開放感を味わう。次幕ではポロヴェツ軍に侵攻された宮殿が崩壊するシーンが大変にドラマチック。思わず客席からどよめきが。第3幕は第1幕で観た白亜の宮殿が廃墟に変わり果て、雨漏れもしている寒々とした風景。全幕を通じて、視覚的に迫ってくる舞台になっている。

このドラマチックなストーリーを彩るのは、素晴らしい歌声を聴かせてくれる主役陣の面々。ロシアが誇るバスバリトンのアブドラザコフは、リッカルド・ムーティの秘蔵っ子で、イタリア作品を得意とする彼には珍しいロシアものだ。妻や息子への繊細な愛情をリリカルで洗練された美声で表現しつつ、イーゴリ公の苦悩を深い演技力で見事に描いている。堂々として見目麗しく、気品がある彼は、ステージで観るのがいつもとても楽しみだ。

今回METデビューを果たす、ウクライナ出身のオクサナ・ディーカは、イーゴリ公の献身的な妻役として、大胆で的確な高音を聴かせてくれる。悪役のガリツキー公はロシア人バスのミハイル・ペトレンコだが、いかにもロシア的な深みがあるバスを満喫した。その他、イーゴリ公の息子役のセルゲイ・セミシュクール、コンチャーク汗役のステファン・コツァン、その娘役のアニータ・ラチヴェリシュヴィリらも適役で、最高の歌声と演技力を堪能できた。そして、何と言ってもロシア作品で忘れてならないコーラスが、今回は舞台の演出上、2階と3階のボックス席からも歌っており、彼らの歌声には圧倒された。

これらの歌手と重厚ながらメロディアスなボロディンの作品を演奏するオーケストラをまとめているのが、イタリア人だがゲルギエフの薫陶を受けたジャナンドレア・ノセダ。彼の指揮で、歌手陣とオーケストラも一体となって、本作品を活き活きと見事に盛り上げ、私達をイーゴリ公のエキゾチックな遠い国へと誘う。

さて《イーゴリ公》はボロディンが18年ほどかけながら未完で逝去したため、リムスキー・コルサコフとグラズノフが完成した作品だ。だが、今回はG・ノセダとD・チェルニアコフによって、原作を配慮しながらの独創的なプロダクションで、人間としてのイーゴリ公を掘り下げて、私達にも共感できる人物像が描かれている。最後の場面は、打ちのめされた英雄が再起を目指す希望に満ちており、本作品の一番、心に響くポイントとなっている。

素晴らしい演出と粒ぞろいの歌手勢。この稀にしか上演されない作品に触れる、またとない機会だ。
(c) Cory Weaver/Metropolitan Opera